竹山流津軽三味線


津軽三味線とは、青森県の津軽民謡に付ける伴奏三味線のことを言うのだが、現在では三味線だけの独奏、というイメージを強めています。


元々は明治、大正から昭和初期にかけて、主に盲目の男性がお金や食べ物を貰うために演奏した三味線です。村から村へ、一軒一軒、門付けして歩いたそうです。当時は、目の不自由な人など、普通の仕事が出来ない人は三味線弾きになるしか無かったそうです。それは、乞食同然の大変恥ずかしい事であり、”ボサマ”などと呼ばれ、差別を受けながらも、生きるために三味線を弾き続けてきたのです。元祖、ストリートミュージシャンとでも言うべきでしょうか?まあ、決してそんな甘っちょろいものでは無かったでしょう。


その当時はまだ太棹三味線は一般的でなく、細棹であったようです。”津軽三味線”という言葉も無く、単に”三味線”とか”ボサマの三味線”とか言われていたようです。”津軽三味線”と呼ばれるようになったのは戦後のことです。三味線も、唄に負けないように、より大きな音量を求めて、細棹から中棹に、そして太棹へと変化しました。曲調も、その時代、時代で変化してきました。例えば、有名なじょんから節でも、旧節、中節、新節と変化して、三味線だけ聴くとそれぞれ違う曲のようです。

先人達が演奏を競い合って、奏法も様々な工夫がなされて、現在では大きく二つの流れが出来ています。”叩き三味線”と”弾き三味線”などと言われます。

現在、津軽三味線には、様々な流派が存在しますが、その殆どはいわゆる”叩き三味線”の系列です。その奏法は、激しく叩き付けるような弾き方で、非常に情熱的なものです。一方、いわゆる”弾き三味線”は、唄の旋律を奏でるような弾き方をします。この奏法は竹山流のみです。

どちらが正しい、と言う事ではなく、どちらも正しいのです。どちらも”津軽三味線”であるのです。


竹山流津軽三味線とは、初代 高橋竹山の奏法を受け継いだ津軽三味線です。一般には”弾き三味線”の流派と言われます。


ここからは、僕の解釈ですが。

”弾き三味線”と言われますが、初代 高橋竹山の若い頃の音源を聴くと、その撥さばきは結構力強いものです。逆に、叩き三味線で有名な白川軍八郎さん(1909~1962)も、古い音源を聴くと、なるほど1の糸は力強く叩き付けていますが、3の糸の扱いはとても繊細です。

”叩き三味線”と”弾き三味線”と言う表現には少し誤解があって、その真意は山本竹勇さんのサイトで詳しく説明されています。

一般に言われる”叩き三味線”の流派でも、繊細に弾く部分もあるし、”弾き三味線”の流派でも、強く打ち付ける部分もあるのです。ですから、”叩き三味線”と”弾き三味線”とで線を引いてしまうのはどうかな?と思います。確かに、現在では切れにくいナイロン弦やテトロン弦を使うため、より一層激しく叩き付ける傾向にあり、”叩き”と”弾き”の差がはっきりしているとは言えますが。

三味線という楽器は弦楽器でありながら、打楽器的な要素もありますので、弦楽器的要素を重視して弾くのか、打楽器的要素を重視して弾くのか、という事だと思います。その間に線を引く必要など無いと思います。


竹山流はあくまで竹山流です。もっとさかのぼれば、竹山流は豊月流と言ってもいいかもしれません。初代 高橋竹山の追求した音色は梅田豊月(1885~1952)の三味線だったそうです。竹山の師匠の師匠にあたる人です。そのまた師匠の師匠で仁太坊(1857~1928)にたどり着きます。

仁太坊は弟子に「人真似でない自分の三味線を弾け」と教えたと言われています。その結果、様々な個性の三味線弾きが出現したのでしょう。激しく叩き弾く者、綺麗な澄んだ音色を出す者、唄の節を変化させた者・・・

綺麗な澄んだ音色(音澄み)を追求した長作坊(仁太坊の弟子)~梅田豊月~戸田重次郎~高橋竹山~という流れが竹山流津軽三味線という事になるのでしょう。


初代 高橋竹山(1910~1998)について

伝説的な盲目の津軽三味線奏者。津軽三味線を全国に広められました。

’十三の砂山’’鰺ヶ沢甚句’’与三郎節’’津軽音頭’など数々の津軽の名曲を成田雲竹氏(津軽民謡の名人)と供に世に送り出しました。


・・・恥ずかしながら、僕が初めて初代 高橋竹山という人を知り、その音を聴いたのは亡くなった後でした。しかも、CDです。もちろん、生で聴いたことは無いのです。第一印象は、「あれっ?」でした。僕が持っていた津軽三味線のイメージとは違ったのです。正直、拍子抜けした感じでした。しかし、聴けば聴くほど、何か凄く深いものを感じました。・・・


高橋栄山について

初代 高橋竹山の直弟子で、現在、竹山流津軽三味線の第一人者です。僕の師匠です。

初代 高橋竹山先生がまだ全国的に知られていなかった頃から、いち早く、その音色、旋律に感銘を受けられました。栄山先生、17歳の時だったそうです。そして弟子入りを望むも、その当時の竹山先生は”弟子を採らない”で有名な先生であり、「目が見えるんだから三味線なんか弾くな!」と言われたそうです。それでもなんとか、この人の芸を受け継ぎたいという思いで、先生の送り迎えなどを買って出て、3年後、20歳の時にようやく弟子入りを許されます。

しかし、そこからがまた苦労したそうです。当然、譜面なんて無いですし、竹山先生はあまり教えてくれなかったそうです。その当時は、手を盗まれるのが嫌だったんでしょうね。


・・・今は譜面もありますし、栄山先生はとても丁寧に教えて下さいます。だから、僕らはめちゃくちゃ恵まれてます。・・・


竹山先生に師事して3年、ある商業施設で三味線を弾く仕事をもらったそうです。毎日4回のステージに上がり、その合間には楽屋でひたすら練習の日々を送られたのです。

やがて”高橋竹山”の存在が全国的に知られるようになります。全国的に認められた竹山流津軽三味線を関西の人にも教えてほしい、と言う竹山先生の意向で、1975年、弟子入りから10年、青森から神戸に移り住み、竹山流津軽三味線の道場を開かれました。


最近では、古くて良い津軽の唄を、奥さんの須藤雲栄先生とともに再発掘し、”古調あいや節”を発表されたりと精力的に活動されています。

また、CD「津 軽」もいいですよ。高橋栄山先生の三味線、尺八、須藤雲栄先生、長崎純子さん(二代目 須藤雲栄)の唄。ぜひ、聴いてほしいです。


・・・青森から神戸に来られて35年になりますが、栄山先生、雲栄先生ともに津軽弁のまんまです。やはり、津軽三味線、津軽の唄、は津軽弁から出来ているんだと感じます。根っこにあるんです。いくら頑張っても僕には出せない味、というものを感じるのです。しかし、もっともっと根っこにあるのは”気持ち”だと思うのです。・・・



・・・・・2010年記・・・・・